秋田県立博物館(秋田市金足)には、横手市の中山人形の3代目制作者・樋渡義一(1987年没)による、秋田犬をモチーフにした作品が収蔵されている。理想の秋田犬の姿を表現した作品からは、義一が中山人形の評価を全国的に高めた理由が垣間見えるという。同博物館副主幹の丸谷仁美さんに、作品や義一について解説してもらった。
(初出:2022年2月23日付秋田魁新報「すいよう学芸館」欄「美を知る」)
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中山人形は明治の初めごろ、平鹿郡吉田村中山(現横手市平鹿町)で、野田宇吉、樋渡ヨシによって誕生した土人形である。昭和になると、ヨシの孫の樋渡義一が、横手人形と称し、秋田を象徴する行事や風俗などを題材とした新作人形を生み出した。今回は義一が1935(昭和10)年ごろまでに制作した、秋田犬をモチーフにした2点に注目し、義一の目指した人形像について見ていきたい。
秋田犬は31(同6)年に国の天然記念物に指定され、立ち耳、巻き尾で、体の大きいことが特徴とされた。しかしながら、昭和の初めにはそうした秋田犬の姿はほとんど見られなくなっていたという。義一が制作した「秋田犬レリーフ」は、まさに理想的で堂々とした秋田犬の体躯(たいく)が表現されている。
一方、義一作の「忠犬ハチ公」は、34(同9)年に建立された渋谷駅前の忠犬ハチ公の銅像と同じ姿で制作されている。亡くなった主人を毎日駅で待ち続けるハチは当時から有名で、存命中に銅像が建つほどであった。
子犬の頃のハチは耳が立っていたのだが、後年、負傷のために左耳が垂れてしまった。駅の像とこの写真の像では左耳が垂れており、座っているため尻尾も伸びている。この姿が秋田犬らしくないということで、渋谷駅前の銅像建立時や、後年ハチの剥製を作る際には、立ち耳で巻き尾姿にするかどうかで論争があったという。
義一は、犬の像を制作する際、秋田犬の保存に尽力した小野進(すすみ)の助言を得ていた。小野とのやりとりがあったのは33(同8)年ごろで、義一は当時横手人形を取り扱っていた横手町(現横手市)の大澤鮮進堂の主人に宛て、「昨日大館中学の小野先生より犬についての御批評が参りました。小包で送った犬に一々批評を書き加へ更に秘蔵の写真など貸して下さいました」と書き送り、再び試作品に挑戦すると結んでいる。
小野も大澤宛てに、義一と数度書面でやりとりし「悪口申上」げたと述べているが、義一の制作した犬を「仲々の苦心物」であると評価している。こうした小野の助言があったからか、レリーフでは、大きな巻き尾と立ち耳の理想的な秋田犬が表現され、ハチ公は、主人を待ち続けた後年のハチの姿が表現されている。
銅像からは分からないハチの毛の色については、小野が「黄色とあるが、吾々(われわれ)の見る所では薄赤、先(ま)づ白犬の類に入れてもさして不都合はあるまいと思ふ」と述べている通り、顔から腹は赤みがかった白、背中の部分は黄色みを帯びて彩色されている。実際にハチを見た人の助言がなければ、この複雑な色使いは出せなかったであろう。
義一は人形を制作する際、「一玩弄物(がんろうぶつ)のみならず、實に教育の資料」となるものを作り上げようとした。そのため、しばしば専門家から助言を受けている。そうした専門家と義一とをつないだのは、大澤鮮進堂をはじめとした、当時の横手町の有識者らであった。多くの人々の協力と、人形制作に対して本物を追求しようとする義一のひたむきな態度が、中山人形の発展につながったのだろう。