闘犬として作出された秋田犬 「変容」が語る苦難の歴史

 秋田県大館市字三ノ丸の秋田犬会館。その3階に、国内の犬種団体運営施設としては唯一の「博物室」がある。1977年、秋田犬保存会が創立50周年を記念して会館を建てた際に資料館として整備した。

 整然と並ぶ貴重な展示品の中でとりわけ目を引くのが、毎年春の本部展覧会で最高賞の栄に浴してきた歴代の「名誉章犬」のパネル写真だ。

どれだけ「標準」に近いかを競う

 本部展での審査は保存会が38年に定めた「秋田犬標準」に従う。巻き尾に立ち耳、三角の目、毛並みや立ち姿の美しさといった秋田犬独特の容姿に加え「沈毅(ちんき)」(物に動ぜず落ち着いた様)、「悍威(かんい)」(強い精神力)、「忠順」(素直で忠実な態度)など、秋田犬が本来備え持つ内面の要素も重要な審査項目となる。

 本部展とはつまり「標準」にどれだけ近いかを競うコンテストである。名誉章犬はその年の究極の1匹、いわば美の頂点に立つ犬なのである。

秋田犬会館博物室に展示している歴代の「名誉章犬」の写真。その年の美の頂点を極めた犬たちだ

 3階フロアには、良質の犬を作るため交配用に使われていた「作出功労犬」の写真を展示したコーナーもある。最も古いのは43年生まれの犬。

 さて、功労犬と最近の名誉章犬を比べてみる。浮かび上がってくるのは、これが同じ犬種かといぶかってしまうほどの風貌の違い。

 「この変容こそが秋田犬の背負ってきた苦難の歴史であり、秋田犬の原型復興に力を注いできた先人の情熱の跡なのだ」。保存会の富樫安民会長(70)が力を込める。

 そう、秋田犬は長らく闘犬として作出されてきたのだ。
 
 秋田犬は古来、マタギに欠かせない狩猟犬として飼われてきた。最初の転機は、秋田藩が藩士の士気高揚のため闘犬を奨励した藩政期にさかのぼる。

「より強く、より大きく」

 とりわけ闘犬熱が盛んだったのが佐竹西家(大館市)。明治期になると「より強く、より大きく」を求め、マスチフ、シェパードといった洋犬や、土佐犬との交配が進んだ。雑種化はもはや、止めようのない流れとなった。

 次の転換点は大正期。秋田犬を含む日本犬保存へ、180度かじを切った。明治以降の西洋信仰の反動ともいえる。治安維持のため、明治後期に闘犬禁止令が発布されたことも、純血種保護に方向転換する重要な背景となった。

 秋田犬の原型復興への機運は昭和に入ると一段と高まりを見せる。27年には地元・大館の名士らが秋田犬保存会を設立。その4年後には、9匹の秋田犬が日本犬として初めて国の天然記念物指定を受けることになった。

 時代に翻弄(ほんろう)されてきた秋田犬は、戦況の悪化に呼応し再び悲運に見舞われる。国中が食糧難で、犬に餌を与えただけで国賊呼ばわりされた時勢。まして秋田犬は体が大きく、人目に付きやすい分、風当たりも強い。多くは殺され、毛皮は軍用の防寒着として供された。

 終戦時に生き残っていた秋田犬はわずか十数匹といわれる。原型復興へ向けた戦後の事始めは、土台となる純血種が絶滅寸前―という逆境下で進められていくことになる。

<2014年10月14日秋田魁新報朝刊、文中の年齢・肩書きなどの上方はすべて掲載当時のもの>

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モフモフした毛並みに、つぶらな瞳、くるりと丸まった愛らしいしっぽ。たくましい身体を持ち、飼い主に忠実な性格でも知られる秋田犬は、今や世界中の人気者です。海外での飼育頭数は増え続け、本場の秋田では観光振興に生かそうという動きも活発化してきました。秋田魁新報は「秋田犬新聞」と題し、国内外のさまざまな情報を発信していきます。秋田犬を通して世界と秋田をつなぐ―。そんなメディアを目指していきます。

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