狩猟犬の本能求める 原型復興に注力したクマ撃ち

 秋田犬の原型復興には、この犬に魅せられた数多くの人が心血を注いだ。戦後、100匹以上の秋田犬を育て、2008年に92歳で亡くなった澤田石(さわたいし)守衛(もりえ)さん=秋田県五城目町出身=もその一人だ。

宮城・栗駒山の自宅周辺で、愛犬「シロ」と散歩する晩年の澤田石さん=2006年5月

 「秋田犬の父 澤田石守衛」(木楽舎刊)の著者で、晩年の澤田石さんに密着取材した畠山泰英さん(44)=東京都、編集プロダクション代表=は「澤田石さんが犬との関係で何より求めていたのは、同じ目的を成し遂げた者だけが共有できる一体感だったと思う」と話す。

 澤田石さんは秋田犬を狩猟犬に用いた最後のクマ撃ちといわれる。

「衝動」から「渇望」そして「使命感」へ


 最初の1匹は水力発電所長として岩手との県境の八幡平にいた1944年に手に入れた。時代が時代である。大型犬は禁制品に近い扱い。それでも犬が欲しいという説明のつかない「衝動」は「渇望」に膨らみ、秋田犬を絶えさせてはならないという「使命感」にまで大きくなった。秋田犬1匹に、半年分の給料をはたいた。

 戦後は雄雌2匹から繁殖を始めた。ノウハウが確立されていたわけではなかったが、良質の犬を作出するための研究と観察は怠らなかった。子犬が生まれたと聞けば出向き、見込みのある犬の元には何度も足を運んだ。子犬同士を遊ばせ、その様子を注意深く観察しながら犬の性格を見極めようと努めた。

 当時はまだ、他の犬種との交配の影が容姿に色濃く残っていた。澤田石さんは原型復興の道しるべとされた「秋田犬標準」に加え、秋田犬にこんな価値を求めた。それは、狩猟犬としての闘争本能、生存本能、胆力。秋田犬を猟の供とした澤田石さんにとって、譲れない要件だった。
 
 澤田石さんは集団狩猟を糧とする伝統的なマタギではない。では遊猟かといえば、それも微妙に違う。クマ撃ちは澤田石さんにとって、もっと切迫した何かだった。犬の本能を極限まで呼び起こすための、命懸けの手段といえた。

「生き延びてきた理由は、無意識の知恵」

 体の大きい獲物を見つけると、背後に回るのが猟犬の本能だ。正面に立ったのではひとたまりもない。クマは向きを変えるが、犬もそれに合わせて常に背後をつけ回す。辛抱しきれず、クマが木に登ったところに銃を向ける。仕留めたクマは10頭を超えた。

 澤田石さんは秋田犬の闘争本能を「敵の弱点を見抜く力」と言い「秋田犬が何世紀も生き延びてきたのは、そうした本能のおかげ。無意識の知恵だ。明敏さといってもいい」と話していたという。

 秋田犬への愛情は、こんなエピソードからも浮かび上がる。自分で育てた犬を、一度も売ったことがないのだ。

 澤田石さんは展覧会で入賞するような美しい犬の作出でも実績があった。評判を聞きつけ、子犬を売ってほしいという人は後を絶たなかったが、掛け替えのない犬に値段を付けるなど考えただけでぞっとした。その代わりに、本当に欲しいという人には無償で譲った。

 発電所の仕事を定年退職後の75年、家族と犬と共に宮城・栗駒山の未開地に新居を構えた。この地でクマ撃ちを続け、傘寿を過ぎてようやく銃を置いた。

 「犬の特質は常に人間にとって好都合なもの、人間が望むものになる」。秋田犬が狩猟の場から完全に姿を消したことで、猟犬としての本能を失ってしまうのではないか。澤田石さんは最晩年、こんな心配を口にしていたという。

 澤田石さんは2008年6月の岩手・宮城内陸地震で被災。娘の住む関東地方へ避難し、犬も手放した。天寿を全うしたのは、地震から4カ月後のことだった。

 
 【参考文献】「秋田犬の父 澤田石守衛」(畠山泰英著、木楽舎刊)、「ドッグマン」(マーサ・シェリル著、アメリカン・ブック&シネマ刊)

<2014年10月14日秋田魁新報朝刊、文中の年齢・肩書きなどの上方はすべて掲載当時のもの>

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モフモフした毛並みに、つぶらな瞳、くるりと丸まった愛らしいしっぽ。たくましい身体を持ち、飼い主に忠実な性格でも知られる秋田犬は、今や世界中の人気者です。海外での飼育頭数は増え続け、本場の秋田では観光振興に生かそうという動きも活発化してきました。秋田魁新報は「秋田犬新聞」と題し、国内外のさまざまな情報を発信していきます。秋田犬を通して世界と秋田をつなぐ―。そんなメディアを目指していきます。

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