秋田県大館市字新綱にある「ふるさわおんせん」は、秋田犬の親子が出迎えてくれる温泉宿だ。スタッフと会話しながら母の温(はる)(6歳)・娘の華(5歳)と触れ合い、ゆっくり温泉や料理を楽しむと、実家にでも帰ってきたかのような居心地の良さを感じる。
2匹は宿の玄関を開けてすぐ、受付ロビー周辺の柵内で過ごすことが多い。休憩などで外に出ている時間もあるため、事前に電話で確認しておくのがお勧めだ。
「温ちゃんと華ちゃんに会いたくて来ました」。6月上旬、2匹を目当てに神奈川県から50代の夫婦が訪れた。
宿では2匹との記念撮影も可能だが、撮影前に独特の段取りがある。この日も2匹は、初対面の夫婦に近づくと、手や服のにおいをゆっくりと嗅いだ。警戒心を解くための大事なルーティンだという。
撮影が済むと、夫婦はスタッフから普段の様子などを熱心に聞き、「会えてうれしかったです」と笑顔を見せた。
宿の小林薫社長(48)によると、温の性格は「パワフル母ちゃん」。子を守ろうとする責任感と母性が強い。一方の華は「言葉が分かる、人間のような犬」。客が「あれ、華ちゃん太った?」と声をかけると、おやつを食べるのをピタッと止めたこともあったとか。名前はそれぞれ、温泉と湯華(湯の花)に由来する。
今では秋田犬ファンに知られた存在の宿だが、初めから順風満帆だったわけではない。
ふるさわおんせんを営む父と母の下に生まれた4姉妹の末っ子で、幼い頃から食べることが大好きだったという小林社長。将来は宿の調理部門を手伝いたいと、専門学校で調理師の免許を取得した。
卒業後は県外のホテルで4年ほど修行し、1998年に帰郷。父から宿の経営を学んでいこうとした矢先、その父が心臓病で急死する。小林社長が実家に戻ってわずか2週間後だった。
ショックと不安で押しつぶされそうになる中、父を知る人たちの激励や、母と姉の佐々木桂さん(52)=の協力もあり、家族力を合わせて宿を守っていくと決めた。
初めは父と付き合いのあった人が利用してくれたものの、客足は次第に途絶えがちに。そんな時、常連客の一人から「大館は忠犬ハチ公の古里なのに、秋田犬に会える場所があまりない。飼ってみたらどうか」と助言を受けた。
秋田犬保存会(本部・大館市)の会員に相談し、紹介されて譲り受けたのが温だ。外を元気いっぱいに走り回る様子に、佐々木さんは一目ぼれした。小林社長は「こんなやんちゃな子、育てられるかしら」と悩んだが、「年を重ねればおとなしくなる」という会員の言葉にも背中を押され、看板犬として迎え入れた。
2018年には温が6匹を出産。華だけを親元に残し、他の5匹はほどなく県内外に引き取られた。小林社長は「温が子どもの数を数えて足りないことに気付き、不思議そうに首をかしげていた」と振り返る。
看板犬となった秋田犬の母と娘はメディアで取り上げられ、「秋田犬に会える宿」として話題をさらう。海外から訪れる客も増え、行楽期には満室となる状態が続いた。ところが今度は、新型コロナウイルスの感染が急拡大して利用が激減。老朽化した建物の修繕も重なり、再び窮地に立たされた。
救ってくれたのは全国のファンだった。「父から受け継いだ宿を守りたい」とクラウドファンディングで支援を呼びかけたところ、目標を上回る390万円余りが寄せられた。「コロナが明けたら必ず会いに行きます」という温かい言葉にも力をもらった。現在、客足はコロナ禍前の水準に戻りつつあるという。
「お客さんは2匹を家族のように思ってくれている。誰かの心の支えになっている犬たちなんだと感じる」と小林社長。2匹と、そのファンと共に苦境を乗り越えたふるさわおんせんは、利用客の気持ちを解きほぐす宿として愛されている。