ヘレン・ケラーと秋田犬の深くてうるわしい関係

 視力、聴力を失い、話すことも不自由な三重苦を抱えながら障害者福祉に尽力した米国のヘレン・ケラー※1(1880~1968年)は、無類の犬好きで知られます。とりわけ心を奪われたのが忠犬ハチ公の物語。1937年、3カ月半にわたって日本各地を訪問した際、講演先の秋田県で秋田犬が欲しいと訴えました。ケラーと秋田犬の愛情物語を、戦前の秋田魁新報の記事を基に紹介します。

《当時の記事を現代文に再構成したほか、一部不適切な表現を削除しています》

船上で剣山号に触れるヘレン・ケラー=ニューヨーク・ブルックリン(秋田犬保存会提供)

「障害者に同情と擁護を」 ケラーさん、単独取材に語る

「秋田犬が欲しい」。ケラーの願いを伝え聞いたのが、後に秋田犬保存会副会長を務めた故小笠原一郎氏(当時は秋田警察署巡査)。飼い犬だった生後75日の「神風号」をケラーに譲りました。

いまや世界中で愛されている秋田犬ですが、神風号は日本から海外に渡った秋田犬第1号で、ケラーが譲り受けたことは米国でも当時、大きく報じられました。

1937(昭和12)年6月13日付の秋田魁新報朝刊は、列車で秋田駅へ向かうケラー一行に山形県酒田駅から密着した記者の同行記を紹介しています。障害者に思いを寄せるケラーの人柄がにじむ内容です。

1937年6月13日付の秋田魁新報朝刊。左がケラー、その右隣が秘書のトムソン嬢

 12日午後、波洗う日本海に沿って新潟方面からの下り列車を酒田で出迎えた。「受難の世界の聖女」はライトハウス院長の岩橋武夫※2夫妻の紹介で快く記者と対面した。金髪、そして花模様のドレス。今年で57歳。温容あふれるばかりのヘレン・ケラーさんだ。連日の講演ですっかり疲労している様子。話すことは不自由だが、それでも「わざわざありがとう」と意思を伝えてくれる。そのやりとりはまさに奇跡のようである。

 ご遠路はるばるお疲れさまです。秋田ではケラーさんをお迎えできることを大変喜んでおります。秋田にはケラーさんのように障害のある人が3千人以上いますが、ケラーさんの来県はそうした人たちだけでなく、100万県民にとっての喜びです。

と記者。これに対しケラーさんはこう答えた。

 秘書のトムソンが風邪をひいてしまったのですが、何とかして「侍の国」のハンディーキャップのあるに人たちのために行かなければならない、そしてその人たちに慰めと激励の言葉をかけたいと思ってまいりました。どうか秋田でもケラーのような障害のある方々に尊い同情と擁護をお願いしたいと思います。それが実現すれば、ケラーの三重苦も無駄でなかったということになるのです。3千人の秋田の不自由な人々へ、奉仕の心をお与えください。

 記者は沿線にある由利郡亀田の山間部に、ケラーさんと同じ三重苦の障害のある10歳の少年の話をした。ケラーさんは傍らの秘書トムソン嬢の唇に手を当て記者の話の内容を理解し(読唇法)、「本当に気の毒な話です。胸が重くなります」と唇を動かした。

  ケラーさん、あなたは今度の旅行で何を感じていますか?

と記者。トムソン嬢を介した取材が続く。

  おお、素晴らしい経験の一つです。日々新しい美の啓示を感じ、人々の愛情はそれにも勝り美しく懐かしい。

ケラーさんはよどみない。

 山形県の遊佐駅を通過した辺りで、ケラーさん、トムソン嬢、岩橋夫妻は駅弁を楽しんだ。ケラーさんとトムソン嬢は互いの手のひらへ指文字により意思を伝え合う(編注:いわゆる指話法)。ケラーさんは金浦など各駅で盛大な歓迎を受け、そのたびに「さようなら」「ありがとう」と伝えた。

 午後9時6分、秋田駅到着。ケラーさんは新緑の秋田市に一歩をしるした。

※1ヘレン・ケラー  社会福祉事業家。1880年米アラバマ州生まれ。幼少時に原因不明の熱病のため視力、聴力を失い、話すこともできなくなる三重苦を負った。6歳の時、生涯の師であり、友人となった女性家庭教師アン・サリバンと出会い、並外れた努力の末、大学を卒業。身体障害者の教育、福祉のため世界各地を奔走したほか、男女平等、人種差別反対、反戦活動など幅広い分野で活躍した。1937年、48年、55年の3回訪日した。68年6月、死去。

※2岩橋武夫  視覚障害者の生活支援団体、社会福祉法人「日本ライトハウス」創業者。1898~1954年。早大在学中の21歳のときに失明。留学先の英国で社会福祉活動について見聞を深め、1922年に日本ライトハウス設立。点字図書の出版や援護相談、講演活動などを進めた。1937年と48年のヘレン・ケラーの日本招聘(しょうへい)にも尽力した。

ケラーさん、秋田に到着 記者団に「秋田犬が欲しい」

6月13日付朝刊には、同行記のサイド記事としてケラーの秋田駅到着を伝えています。記事はケラーを歓迎する県民の熱狂ぶりとともに、「記者団に『秋田犬が1匹ほしい』」と語ったと報じています。ケラーさんがどういう脈絡でそんな話をしたかの説明は、残念ながら記事にはありませんでした。

1937年6月13日付の秋田魁新報朝刊

 この夜、駅頭には奇跡の聖女を出迎えようと、全県挙げて手に手にほうずき提灯を持って歓迎する人であふれた。秋田市長、秋田県教育委員会幹部、日赤秋田県支部、在秋田市牧師団、招致事務関係者らがホームを埋め、その中には秋田県立盲唖学校(当時)の生徒が校長に引率されて参列。心から尊ぶかれんな姿が、見る者の胸を打った。

 やがて微笑をたたえてケラーさんが秘書のトムソン嬢、通訳の岩橋武夫さんらととに到着。歓迎の渦の中を通り抜け、駅長室で市長や秋田県教育委員会幹部らと握手した。盲唖学校5年の女性生徒から花束を贈られると、「ありがとう」と応えた。

 ケラーさんは記者団に「秋田犬が1匹ほしい」と語り、用意した自動車に乗って秋田の第一夜の宿となる小林旅館へと向かった。

秋田犬譲渡を申し出、ケラーさんへ秋田署巡査 「国際親善のあかし」

秋田到着翌日の講演会を挟んだ6月15日付朝刊。「遠来のケラー女史に秋田犬を贈る」の見出しで、秋田犬を所望するケラーに秋田署巡査の小笠原一郎氏が譲渡を申し出たことを報じています。

興味深いのは、神風号の譲渡を巡って対価を払うかどうかで意見が割れたというエピソード。「ただではもらうわけにゆきません」と言うケラーに対し、小笠原氏は「金をもらうつもりなら、僕は最初から差し上げるなどとは絶対言いませんでした」と譲りません。最後は秋田署長が仲介し「国際親善のプレゼントに金の話は無用」ととりなした、と紹介しています。

1937年6月15日付の秋田魁新報朝刊

 「朝早く眼覚めて見たらこの街の美しい緑が私にはよく分かりました。進歩的な親切な人々のいる街であるということも私には分かったのでした」。世界の聖女ヘレン・ケラーさんが秘書のトムソン嬢を介して秋田県記念会館で行った13日の講演会。2千余の聴衆の中には涙ぐむ人の姿もあった。

 翌14日、ケラーさんと秋田の青年巡査との間に、国際親善の芽が生まれた。

 ケラーさんはアメリカの自宅に米、英、独、仏の犬4匹を飼っているという。その国のことを知るための一助とするためだ。

 ケラーさんは、海外にまでその名を知られている秋田犬が欲しいと言い出した。通訳の岩橋武夫氏やトムソン嬢は「秋田犬はめったに純粋な種がいないそうですよ。仮に見つかったとしても、本国へ連れて帰ったら犬が5匹にもなってしまいますよ」となだめたが、「どうしても欲しい。それは日本と米国の人々を結ぶためです」と、一向にきかない。

「私の秋田犬をあげましょう」。岩橋さんを通じ名乗り出たのは、秋田警察署の小笠原一郎※3巡査(30)。大館町出身、剣道五段錬士。自分の飼っている生後75日の牡犬「神風号」の譲渡を申し出た。

 この話を聞き及んだケラーさんは、世界にも有名な犬を「ただではもらうわけにゆきません」と言う。一方、小笠原巡査は「金をもらうつもりなら、僕は最初から差し上げるなどとは絶対に言いません」と譲らない。最後は高橋秋田署長が「国際親善のプレゼントに金の話は無用」と仲介して決着した。

 もうすぐ秋田を離れていくことなどつゆ知らず。神風君は赤い舌をぺろぺろ出しては小笠原巡査にじゃれついていた。

 小笠原巡査は「この犬は本物の秋田犬です。国際親善、しかもあのような方に差し上げるのは私としても本望です。犬も幸福でしょう」と話した。

※3小笠原一郎  大館市出身。大館中(現大館鳳鳴高)―小樽高等商業学校(現小樽商科大)を経て警視庁入りし、秋田県警に出向。剣道は八段範士。秋田県剣道連盟会長、全日本剣道連盟理事、秋田犬保存会副会長を歴任。

「神風が亡くなりました」 ケラーさん悲痛、贈り主に書簡

神風号は、ケラーが住んでいたニューヨーク州に移って約2カ月後、感染症で死にました。1937(昭和12)年12月24日付朝刊は、悲報を知らせる小笠原氏宛てのケラーからの手紙を紹介しています。

ケラーは「一つの喜びが私の生活からなくなっていきました」「毛皮を着た天使がいるとすれば、それこそ実に彼であったといえるでしょう」と、文面に深い喪失感をにじませ、小笠原氏に対し「幸福の泉であった彼を贈ってくださったあなたに対して、いま一度ご挨拶を申し上げます」と感謝の思いをつづっています。

1937年12月24日付の秋田魁新報朝刊

 三重苦の聖女ヘレン・ケラーさんが、秋田警察署の小笠原一郎巡査の贈った愛犬「神風号」を携えて本国へ帰った。この美しき国際親善の話題はニューヨーク・タイムスやシカゴトリビューンなど一流紙のトップニュースを飾った。贈り主の小笠原巡査のもとに23日、ケラーさんから悲報が届いた。神風が死んだというのである。死因はジフテリア。神風は死んだが、ケラーさんと小笠原巡査の友情は、この先長く二つの国をつなぐ架け橋となるだろう。秋田県学務課はこの友情物語を高等女学校の教材に用いるという。

11月20日
ヘレン・ケラー


小笠原 様
 お約束通り、あなたにお便りを書いているのですが、この手紙は、お送りするはずだった楽しい内容とは違うものになってしまいました。大変悲しいお知らせです。神風は昨晩亡くなりました。このことは全く思いがけないことでした。
 神風は日本から米国への航海中、何の問題ありませんでした。今まで生きていたどの犬よりも愉快な子でした、神風は紛れもなく家族になっていたのです。私たちは天気の影響を受けない犬小屋を建ててやりましたが、神風は丈夫で、戸外で暮らしていました。
 彼は以前からわが家にいる、コリーたちと梢から落ちる木の葉を追いかけたりして遊んでいました(中略)。
 2週間ばかり前からあまり食欲がなくなり、ロングアイランドで一番の獣医さんに見てもらったところ、「カタル性犬温熱」とのことでした。その後はあらゆる手だてを尽くしたのですが、悲しい結果となりました。一つの喜びが、私の生活からなくなっていきました。
 私は生後5ケ月ぐらいの子犬がこれほどまでに献身的であったのを見たことがありません。彼はいつも私たちと共におりました。彼はまた、誰とも知り合いになりましたが、彼を見た人は誰でもその美しさとかわいらしいしぐさに夢中になったものです。もし毛皮を着た天使がいるとすれば、それこそ実に彼であったといえるでしょう。
 私は深く悩んでいます。そしてわが家の一部であり、尽きぬ幸福の泉であった彼を贈ってくださったあなたに対して、いま一度ご挨拶を申し上げます。

秋田犬、再びケラーさんの元へ 知事ら確保に奔走

神風号を失ったケラーの深い悲しみを知り、ケラーに秋田犬を再び贈ろうと動いたのが佐々木芳遠知事でした。神風の贈り主の小笠原氏に掛け合ったところ、神風の兄に当たる「剣山号」(3歳)を飼っていることが分かったのです。小笠原氏はケラーに再び秋田犬を贈ることを快諾。日米親善使節として渡米することに決まりました。

1939年1月13日付の秋田魁新報朝刊

 日米親善の使節として、わが秋田犬が一警官から三重苦聖女ヘレン・ケラーさんのもとに贈られ、感動の輪が広がっていたが、この神風号は渡米わずか2カ月でジステンバーにかかり死んでしまった。ケラーさんの嘆きは米紙幹部(主筆)から日本の外務大臣秘書官に、秘書官から佐々木芳遠※4秋田県知事へと伝えられた。

神風を失ったケラーさんの悲しみの大きさを伝え聞いた佐々木知事は、日米親善のため、またわが秋田犬の誇りのため、小笠原一郎巡査部長(警察練習所勤務)へ掛け合った。小笠原巡査部長は当時、神風号の兄に当たる「剣山号」(3歳)を飼っていた。これをケラーさんに贈ることを快諾した。

 剣山号は大館町の金澤永次郎氏(剣道五段)が飼っていた「赤号」と「國光号」の間に生まれた生粋の秋田犬。金沢氏は武道にちなんで剣山号と命名し、小笠原巡査部長に贈っていた。

 小笠原巡査部長は現在、剣山号の渡米の日を待ちながら手塩にかけて育てている。このたび、厚生省体力局長に栄転した佐々木知事も、剣山号がケラーさんのもとで今度こそ元気に育ってくれるよう、小笠原巡査部長に渡米までの世話をお願いしている。

※4佐々木芳遠  第37代秋田県知事(官選)。任期は1938年6月24日~39年1月11日。在任中は田沢疎水開墾事業などを推進した。宮城県出身。

「剣山は日本国民からの使者」 ケラーさんから礼状

 ケラーは東部コネティカット州の自宅で剣山号を長くかわいがりました。冬になると雪が積もる当地の様子は、まるで秋田犬の古里、大館のよう。秋田犬には理想的な環境でした。ケラーから小笠原氏へ送られた礼状には「(剣山号を)日本国民からの使者として愛しています」という印象深い一節が添えられています。

1940年5月16日付の秋田魁新報朝刊

太平洋を渡り、三重苦の聖女ヘレン・ケラーさんに贈られた秋田犬「剣山号」の話題は米紙で大きく報じられた。贈り主である秋田県警察部剣道師範小笠原一郎氏に15日、ヘレン・ケラーさんから礼状が届いた。欧州動乱、そしてその影響が太平洋に広がろうとするいま、国際親善使節である剣山号の感動の輪が米国に広がっている。

剣山号は昨年6月、外務大臣秘書官を通じて当時の佐々木芳遠県知事に依頼され、森本警察部長から小笠原氏へ話があった。小笠原氏は昭和12年8月、ケラーさんに秋田犬「神風号」を贈ったが、神風はその後間もなく死亡。ケラーさんの落胆ぶりを伝え聞き、剣山号を使節として贈った。ケラーさんへの譲渡は、米紙幹部からも日本の外務省に依頼があった。

 ケラーさんが小笠原氏に宛てた手紙の文面は次の通り。

1940年4月1日
コネチカットウエストポートにおいて


親愛なる小笠原様
 「剣山号」を私の家に迎え入れてから、およそ1年になります。もっと早くお手紙を差し上げ、また美しい彼の写真をお送りしようと思ったのですが最近まで写真を撮ることができませんでした。
 剣山号が立派で元気に満ちあふれていることは、ご承知の通りですが、実際はそれ以上です。彼は私の日常生活の一部です。彼は私が読んだり書いたりしている時、陽当たりのいい場所で金色に耀きながら傍らに座っています。時々立ち上がって、いかにも親しそうに私の膝の上に頭を乗せかけます。彼はトムソン嬢や私が散歩に連れて出る時が一番幸福そうです。
 当地は冬の間中、深い雪に閉ざされます。剣山号が雪の上を転がったり跳ねたりするのを見るのは、大変うれしいことです。時には丈夫な前足で小川の氷を破って水を飲み、雪の中にキツネやシカの足跡を見つけて追っていくこともあります。帰って来ると、遊んでもらおうといつも甘えてきます。
 私は新聞社の幹部から、あなたが私のために愛犬を下さったことを聞いて、大変感動いたしました。そして彼はますます私にとって大切なものとなりました。私は彼のきれいな毛衣や微風に揺れる松の枝のような尾に触れるたびに、あなたに感謝しております。私は彼をあなたから贈られた愛犬としてばかりではなく、日本国民からの使者として愛しています。トムソン嬢と共に、丁重なる挨拶と好意とをもって……ヘレン・ケラーより

 ヘレン・ケラーは訪日から31年後の1968(昭和43)年、波乱に満ちた生涯を閉じた。享年87歳。首都ワシントンの国立大聖堂に眠っている。

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わんこがつなぐ世界と秋田

モフモフした毛並みに、つぶらな瞳、くるりと丸まった愛らしいしっぽ。たくましい身体を持ち、飼い主に忠実な性格でも知られる秋田犬は、今や世界中の人気者です。海外での飼育頭数は増え続け、本場の秋田では観光振興に生かそうという動きも活発化してきました。秋田魁新報は「秋田犬新聞」と題し、国内外のさまざまな情報を発信していきます。秋田犬を通して世界と秋田をつなぐ―。そんなメディアを目指していきます。

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